The Strategic Manager 2016/April
株式会社TKC発行「戦略経営者4」より
ほととぎす 消えし静寂や 旅果つる
   革新者・小倉昌男 言葉の力−第12回
    文 作家 山岡淳一郎 氏  
   経営の第一線を退いた小倉昌男は、私財をなげうって障がい者の自立を支援する財団を立ち上げた。
  たとえ障がいがあっても働ける状態なら働いて収入を得て暮らしたい。それを支えようというのだ。
   しかし、現実は厳しかった。  多くの福祉作業所の平均賃金は、月1万円程度だ。自立は夢のまた夢。
  小倉は、福祉的就労と言って低賃金を正当化しているのはおかしいと批判する。「月給1万円からの脱
  却」を掲げ、自ら「成功モデル」をつくろうと奔走した。
   やがて広島に本社を置く製パン会社タカキベーカリーの協力を取り付ける。 タカキベーカリーの「冷凍
  パン生地」 を取り寄せ、二次発酵させて焼き上げて売る小売店を着想した。 タカキベーカリーの社員を
  セミナー講師として招き、共同作業所の運営者たちに製造や販売、経営指導をしてもらう。
   だが、いざ店舗経営に挑むとなると福祉関係者は怖気づいた。 小倉は「これからはパン屋になる」 と
  宣言。周りを鼓舞する。それでも進まない状況に業を煮やし、「会議の議事録ばかり作って、じれったい」
  とスタッフを叱咤した。 小倉が急いだのは、彼自身の体調悪化も関係していたようだ。 小倉は「大腿骨
  頭壊死」という難病にかかり、骨盤に人工関節を付ける手術を受けなければ歩けなくなる、と宣告されて
  いた。 関節の激痛に耐えながら、小倉はパン屋の起業へ突き進む。
   98年1月、銀座のヤマト運輸別館1階にパンの製造販売店を開くことが決まった。 店の着工を確認し
  た小倉は、骨盤にチタンの人工関節を入れる手術を受け、4月下旬に退院した。 6月、ついに障がい者
  と健常者6名ずつが一緒に働くパン屋の第一号店「スワンベーカリー銀座店」が開店したのだった。
  昭和通りに臨む店は、連日、300人以上の客を集め、障がい者の時給は750円を保つ。 労働時間にも
  よるが、月給10万円が実現した。  スワンベーカリーはフランチャイズ展開が拡がった。 東京都北区の
  「スワンベーカリー十条店」では、知的障がいを持つメンバーが厚生労働省にパンを届ける。配達に同行
  した小倉は後にこう語った。  「私は金もうけをやっています。 でも金もうけのために知的障がいの人を
  労働省に売りにやるのは汚いことですか。 労働省のお役人は毎日、紙のうえで知的障がいと書いてい
  ますが、実際に生きている知的障がい者と会って話したことはあるでしょうか。  初めて知的障がい者と
  口をきいた人もいるのではないでしょうか。 これは福祉じゃないですか」(ゼンコロ40周年の集い)
   小倉は、終生をかけて経営と向き合った。 そして・・・、05年6月30日早朝、ロサンゼルスの娘家族と
  和やかに暮らしていた家で、眠るように逝った。 やがて迎える死を想ってか、こんな俳句を残している。
   ほととぎす 消えし静寂や 旅果つる
   小倉は、血を吐くまで鳴いたといわれるホトトギスにかつて結核を患った自分を重ねたのだろう。
  ホトトギスの鋭い鳴き声が消えた静寂は、 悲しみをたたえてビジネス界を覆った。  ただ耳を澄ませば、
  またどこからともなく新たな革新者の声が聞こえてくる。  壁を破って進め、と。