The Strategic Manager 2015/NOVEMBER
株式会社TKC発行「戦略経営者11」より
今日一日、決して悪いことはしません
   革新者・小倉昌男 言葉の力−第7回
    文 作家 山岡淳一郎 氏
   経営者が大局を見誤ると、その会社は転落する。 では、大局観は何によって培われるのだろう。
  知識や経験に基づく洞察力が必要なのはもちろんだが、そればかりではない。 大切なのは、会社
  の存在理由を真摯に問い続ける姿勢。 世間と向き合うための「倫理観」ではないだろうか。
   東芝は不正会計で大局を見失った。 フォルクンワーゲンは不正ソフトによる排ガス規制逃れで失
  墜した。 「失われた信用」の大きさに驚くばかりである。信用は経営倫理に支えられ、大局をつかむ
  基盤をなしている。 その現実を東芝やワーゲンの経営陣は嫌というほど思い知らされただろう。
   小倉昌男の経営には「良心」という筋が通っていた。 と、書くと小倉は四角四面の堅物のように思
  われそうだが、私生活では芸事をたしなむ「銀座の大旦那」の一面もあった。 新橋芸者の小定に弟
  子入りして義太夫を習い、邦楽を愛好する旦那衆の集まり「銀座くらま会」の会長を務めた。芸事・芸
  者文化の保全のため、新橋の芸者衆の後援会まで作り、「新橋はいいよ。 オレの年齢になってもお
  兄ちゃんだろう。 こっちだって5、60の芸妓つかまえて、お姐さんだから、お互い楽しく、だましあって
  いるんだよなあ」 と語っている。 しかし、ひとたび経営の舵を握れば、自らの良心に従った。 他社
  のように政治家に近づいて便宜を図ってもらおうとはしなかった。 1992年の「東京佐川急便事件」
  で小倉の経営姿勢は一層際立った。当時、東京地検特捜部は東京佐川急便の社長、常務らを会社
  に952億円の損害を与えた特別背任容疑で逮捕した。 政界に金をばらまいて人脈を築いたものの
  バブル崩壊。 債務の改修ができなくなり、不正融資の背景や政治家へのヤミ献金疑惑が厳しく追及
  される。 自民党の元代議士、金丸信は議員辞職に追い込まれた。運輸業界は、上を下への大騒動
  となったのだが、小倉は冷静に大局をとらえていた。 バブル期にも本業以外の土地投機などには一
  切手を出さなかった。政治家を使って行政に圧力をかければ早く路線免許がおりそうなケースでも順
  法を旨とした。 その理由を問われて、小倉は次のように答えている。
  「幸か不幸か、私は政治家嫌いなんですよ。それは東京出身だからです。地方に住んでいたら、お願
  いをしていたかもしれませんよ。 東京は浮動票だから先生も会社に来ない。お金のことじゃなくて、票
  に関しては役に立たないと知っている」 照れ屋の小倉らしい理屈だ。 本音は「良心が許さない」だろ
  う。 小倉は60代半ばから毎朝、妻と歩いて15分ほどのカトリック教会に通い、ミサに参加した。業界
  紙の元記者が「毎日毎日、教会で何を祈っているのですか」と訊ねると、小倉はこう返した。
   「今日一日、決して悪いことはしません、と誓っているんだよ」 切った張ったのビジネス最前線に立て
  ば、きれいごとだけでは済むまい。 小倉は毎朝、「悪いことはしません」と誓い、心を刷新して第一歩を
  踏み出そうとした。 水鳥が水面下で懸命に足をかくように、小倉は良心を保とうと人知れず、努めてい
  たようだ。