The Strategic Manager 2015/AUGUST
株式会社TKC発行「戦略経営者8」より
 自分は、大きな力で生かされている
   革新者・小倉昌男 言葉の力−第4回
    文 作家 山岡淳一郎 氏
    事に当たって「捨て身」になれる人は強い。 現代の経営者のなかで小倉昌男の捨て身の攻勢は
  際立っていた。 たとえば、大口を見切り、家庭の荷物に照準を当てて宅急便を立ち上げた局面、長
  距離トラックの路線免許をなかなか下ろさない運輸省を相手に 「行政権はどこにあるんだ」 と挑んだ
  闘いの数々・・・・。 小倉は命を投げ出す覚悟で全力をふり絞った。そのエネルギーの源は何だろう、
  と精神力の淵を覗きこむと、浮かび上がってくる「試練」がある。 25歳のときから4年数ヶ月に及んだ
  肺結核による闘病生活だ。 父・小倉康臣の後継者と期待され、順風満帆にきた昌男が味わう、人生
  初の挫折であった。 1948年の暮れ、小倉は高熱を発して神田駿河台の結核専門病院に入院した。
  当時、結核は「死病」と呼ばれ、特効薬の「ストレプトマイシン」は日本にまだ伝わっていなかった。
  毎年、15万人ちかくが結核で命を落としている。 小倉には「駆け落ち」を語り合うほど惚れた恋人が
  いた。だが、病室の扉には「絶対面会謝絶」の丸い赤札が掲げられる。徹底的な安静療法が施しされ
  入院患者は一切の刺激を受けてはならないとされた。 新聞もラジオも禁止、寝返りも打ってはならず、
  口も利かないほうがいいのでアイウエオを書いたうちわを持たされ、文字を指して意志を伝えた。小倉
  には食事や用便の世話をする付添婦が24時間体制でついた。恋人は面会できないのを承知で病院
  に通った。医院長は憐れみ、「5分間だけ」と区切って病室に入れる。彼女は「がんばってね」と聖書を
  小倉に手渡した。小倉の心に希望の灯がともる。 が、しかし・・・療養が長引き、恋人は「もう来られな
  くなりました」と言い残して去っていく。 失恋というには、あまりにむごい離別だった。 漆黒の闇で小倉
  は涙を流し、苦悶してのたうちまわる。 自殺しようにも寝たきりで体力が衰え、起き上がることもできな
  い。 後年、病床で過ごした絶望の日々をNHKラジオの番組「人生読本」でこう語った。
  「ひと晩じゅう苦しんでおりまして、ある晩『神様助けてください』と、無意識のうちにお祈りしていました。
  ところが、夜中に、ハッと急に心が軽くなって、『救い』というものを体験したわけでございます」
    生と死の観念がせめぎ合う闇に強烈な光が差し込んできた。 「そのときに思ったのは、自分は生き
  てるんじゃない。生かされているんだ、と。大きな神様の力で生かされている。この病気も自分にとって
  必要なものなんだ、と考えますと、とたんに心が楽になりまして、そうして元気が出てきました」
    その後、小倉は東大病院に移って手術を受け、長いリハビリを経てヤマト運輸に復帰したのだった。
  「救い」は本人しかわからない体験なのだろう。ただ、どんな人生にも挫折はつきものだ。誰しも自らの
  力ではどうしようもない現実に打ちのめされることがある。そこで敗北を抱きしめて、「与えられた命」に
  目覚め、限りある人生に全力を尽くそうと意識を変えられるかどうかが、のちの人生を決定づける。
  「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあり」と居直った人間は、しぶとくて強靱である。