The Strategic Manager 2015/JUNE
株式会社TKC発行「戦略経営者6」より
 ヤマトは我なり
   革新者・小倉昌男 言葉の力−第2回
    文 作家 山岡淳一郎 氏
   社員一人ひとりが事業を理解し、行動できる会社は伸びる。生身の人間が汗水たらして荷物を運
  ぶ物流業界では想像以上にドライバー個々の使命感や本気さが業績を左右し、サービスに差がつ
  く。 「やる気」をどう引き出すかが永遠のテーマである。
   同業が続々と宅配事業に参入していた1983(昭和53)年7月、ヤマト運輸社長の小倉昌男は、
  ビジネス講座でセールスドライバー(SD)への思いをこう語った。
  「一番えらいのは、毎日、お客さまと接するSD。彼らは自律的に働きます。監督する人、される人じ
  ゃない。数年前に事務、運転、荷扱いという職種の垣根を無くしました。 SDが集荷や伝票処理、集
  金もぜんぶやる。 分業でセクショナリズムが生じるより、一人でやったほうがやる気がでます。
  SDが本気になれば運送業は強い」 小倉は次のフレーズを強調した。 「ヤマトは我なり」
   それぞれの社員が会社を担う気概を表した言葉である。この文言はヤマト運輸の社訓筆頭に掲げ
  られているのだが、発案者は小倉昌男ではない。 創業者で、父の小倉康臣だ。社訓には、激動の
  昭和が織りなすドラマが内包されている。
   時は、1931(昭和6)年にさかのほる。 昭和恐慌で人心はすさみ、左右の過激思想が台頭してい
  た。 大陸で関東軍が「満州事変」を起こし、国内では労働運動が激化する。270名の社員を抱える
  大和運輸(当時)左派活動家に狙われた。 いきなり労働争議が勃発し、東京・銀座の本社にデモ隊
  が押しかけてくる。運行中のトラックが投石を受け、乗務員が負傷。あげくは、杉並の小倉邸に十数
  名の男が乱入し、手当たり次第に家財を壊した。経営者の康臣は警戒して家に戻っておらず、小学
  校入学前の昌男も母と神奈川の温泉宿に避難していて助かった。康臣は、つくづく「会社は人だ」と
  痛感する。社員をまとめるにはしっかりとした理念を掲げねばならないと思った。
   そこで頭をひねり、「大和は我なり」「運送行為は委託者の意志の延長と知るべし」「思想を堅実に
  礼節を重んずるべし」という三つの社訓を定めたのであった。 年を経て父の後を継いだ小倉は、業
  績がどん底に落ち込んだ1976(昭和51)年、家庭の荷物に標準を絞って宅急便を立ち上げる。
  社内に大口貨物運送の顧客との取引を中止せよと号令した。 宅急便への「選択と集中」で事業の
  大革新を断行したわけだが、社訓には指一本触れず、継承している。それほど「ヤマトは我なり」の
  時勢を超えた力を信じていた。
   変えてはいけない真髄がそこにある。やる気をかきたてるパッションのようなものだ。じつのところ
  草創期の宅急便はSDの自負心が支えだった。あるベテランSDは、猛吹雪の北海道で車が使えず
  荷物をリュックに背負って命がけで配達したときの心境を筆者にこう語ってくれた。
  「こんな雪に負けてたまるかという意地がありました。『ヤマトは我なり』です。それでまっしぐらに進
  みました。 当時、詳しい住宅地図はなくて、配達のたびに手描きの地図をつくって、一軒ずつ届け
  先をそこに落として住所を覚え、自分のものにしていきました」
   創業者の発案から幾星霜、いまもヤマトグループは社訓を受け継いでいる。