The Strategic Manager 2015/MARCH
株式会社TKC発行「戦略経営者」より 歴史に学ぶ事業承継
詰め込み式を否定した器用の仁
  織田信秀−信長
     織田信長にとって、生涯最悪の条件下で挑んだのが、永禄三年(1560)五月の、桶狭間の戦い
    であった。このとき、彼の心を支えていたのは、「おやじ殿は、今川に勝ったことがある」 今は亡き、
    父への思慕であった。 一般には知られていないが、信長の父・信秀は「とりわけ器用の仁にて」
    (『信長公記』)と記されるほどの人物であった。この器用は後世にその意味が衰弱してしまったも
    のの、本来は華やいで実がともない、さらには清潔だとの語感があり、このうえない褒め言葉であ
    った。つまり、信秀は紛れもない一門の人物であったことが知れる。 彼は信長(幼名・吉法師)が
    生まれると、那古野(現・愛知県名古屋市中区)に城を築いて息子をそちらへ。  自信は、新たに
    築城した古渡城へ移った。信秀はなぜ、このような行動をとったのか。これには信秀の、吉法師に
    対する教育方針が深くかかわっていたように思われる。
      理由なしに自然に父を認め、敬慕し、「父に励まされたい」と思うような、そんな子供心を形成す
    べく、信秀は「偉大な父親像」を演じつづけたのである。 居城を別にし、息子に会うおりには、つと
    めて名将らしい嗜みを見せるべく振舞った。 また、信秀の非凡さは、己の代を不安の時代=A
    次の息子の世を危機の時代≠ニ看破していたところにも如実であった。 尋常一様では、さらな
    る乱世 =危機の時代≠ヘ乗り切れない。克服するためには、並はずれた精神力と体力を持つ
    しかなかった。 筆者はこの父なくして、後年の信長はなかったと確信している。
     この時代、教養には三つの柱があった。儒学と仏教と歌学。 とくに歌学は、日本語としての磨か
    れた詞藻を育むものとして重要視されていた。 加えて、中国の古典教養。それらを次から次へと
    詰め込み、暗記させて身につけさせ、かたわら脆弱にならないよう、武芸にも精を出させている。
    ある種の「帝王学」といってもよかった。 信長の宿敵となる武田信玄や上杉謙信、朝倉義景など
    は、まさにこうした教育を徹底して受けている。  ところが信秀は、この一般的な「帝王学」の教育
    を否定した。 「次から次へと題目をもうけては、物ごとの本質を考える余裕がないではないか」
     教育を詰め込むものだと勘違いしているのは、今も昔も変わらない。だが、人間は機械ではない
    ので、矢継ぎ早に次から次へと駆り立てられては、自発的な思考を養う余裕などなくなってしまう。
     信秀はそのことを痛感していた。その証左に、自らがわが子の教育を細かく指示することもなく、
    詰め込み式の教育を施した跡もみられない。 したいと自発的に申し出たもの、興味をもったことだ
    けを徹底して、わが子信長にはやらせている。 信秀という人のおかしさは、自分はあくまでバラン
    ス感覚に富んだ常識人であったにもかかわらず、後継者を己と同一の鋳型にはめようとはしなか
    った点にある。  後年、信長に煩悩や劣等感の片鱗さえなかったのは、こうした教育の成果では
    なかったろうか。 信長はこの父によって「天下布武」にいたる個性を与えられたのである。
    
    
文=作家 加来耕三(かく こうぞう)