The Strategic Manager 2015/FEBRUARY
株式会社TKC発行「戦略経営者」より 歴史に学ぶ事業承継
実績不足に泣いた智勇兼備の将
真田家(後編)真田昌幸−信繁
   慶長5年(1600)世にいう天下分け目≠フ関ヶ原の戦いが行われたおり、真田信繁(俗称は幸村)
  は、34歳であった。 真田家の当主は父であり、世に聞こえた知将の昌幸。決戦を前にして彼は、長子
  の信之を東軍=徳川方に参加させ、真田家の全滅という最悪の事態を避けるべく、自身は次男の信繁
  をともなって西軍に加担。 信州上田(現、長野県上田市)の城砦を固め、徳川秀忠の大軍3万8千を迎
  え撃った。 ときに陽動作戦を用い、奇襲戦を併用し、散々に秀忠軍を翻弄したものの、肝心の関ヶ原で
  西軍は味方の裏切りにより、敗北。 戦後、東軍で活躍した信之の助命嘆願により、昌幸−信繁父子は
  高野山麓の九度山へ追放となる。 慶長16年6月、昌幸は65歳で没したが、その臨終のおり、信繁は
  今後のことを父に質した。が、昌幸は語ろうとしない。信繁が己の未熟さを恥じると、父は「そうではない
  」という。 「才智はわしより、お前の方が上であろう」しかし、策は採用されなければ意味がない。要は、
  その発案者への信用度が、その作戦の成否を決める、とも。
    それから3年後、信繁は大阪城に入城した。冬の陣を目前にしての軍議の席上、彼は関東勢の機先
  を制し、豊臣秀頼が自らの旗を天王寺にすすめ、兵を山崎に出して、別働隊をもって大和路を攻め、さら
  に伏見城を奪取して京へ火を放ち、宇治・勢多に拠って、西上する東軍を迎え撃つ策を進言した。
   妙案であった。しかし、秀頼の近臣たちは、己の未熟を棚に上げ、信繁のことを「若い」と一蹴、籠城戦
  を決議する。 このおり徳川方では、信繁の実力の程を察知し信濃十万石を条件に、信繁へ徳川方の参
  加を誘っていた。 理想に殉ずるか、現実に生きるか−信繁は結果として前者を選択し、残されたわずか
  な時間を、己の実績を積みあげることに費やした。
    籠城戦と決するや信繁は、難攻不落と謳われた巨城・大阪城の唯一の弱点=南方に、出丸の真田丸
  を築き、ついに関東勢を城に寄せつけることはなかった。  城方はみごとに、攻城勢を支えきったが、や
  がて上層部は家康との和睦を選択する。  家康の目的は、豊臣家討滅以外なにものでもない、と断じる
  信繁は、和睦の誓書交換時に家康の虚を衝き、夜襲を仕掛けるべく献策するが、またしても秀頼の近臣
  たちの、容れるところとはならなかった。  そして間もなく、夏の陣が勃発する。
    この間、すでに大阪城は内側の堀を家康の謀略で埋められ、裸も同然となっていた。 信繁は敵の総
  大将・徳川家康のみを狙って、決死の軍勢をすすめる。
  「彼処に顕れ、此処に隠れ、火を散じて戦いけり」(難波戦記)
  信繁は、逃げまどう家康を再三、追いつめたが、ついには力尽きてこの世を去った。享年49。
  その奮戦ぶりは、己の献策を実績の過少を理由に採用せず、間もなく滅亡しようとする豊臣方の上層部
  への面当てであったようにも思われる。  
  それとも後世に、豊臣家に殉じた悲劇の名将として、己の名を残さんがための演出であったのだろうか。
文=作家 加来耕三(かく こうぞう)