The Strategic Manager 2015/JANUARY
株式会社TKC発行「戦略経営者」より 歴史に学ぶ事業承継
比類なき智謀で後継者を育成
真田家(前編)真田幸隆−昌幸
   日本史上には稀に、承継の叡智を代々伝え、繁栄した一族があった。たとえば、戦国の
  真田氏である。 初代というべき真田弾正忠幸隆は、謀将の名をほしいままにした人物だ
  が、この出自は今ひとつ、はっきりしない。 確かなのは、幸隆が永正10年(1513)に生ま
  れ、天正2年(1574)5月19日に、62歳で没したことである。幼名を二郎三郎、諱は初め
  「幸綱」剃髪したのちは、一徳斎を称した。 一方、隆幸の後を継ぎ、豊臣秀吉の側近をし
  て「表裏比興の者」と評されることになる三男の真田昌幸は、天文16年(1547)に生まれ
  慶長16年(1611)6月4日に他界したと一応は定説化している。幼名は、源五郎。定説通
  りならば、昌幸は幸隆が35歳のおりの子となる。 『上田・小県誌』(第二巻)では、この天
  文16年ごろ、幸隆は本来は敵であった甲斐(現・山梨県)の武田信玄へ出仕した、と述べ
  ている。なぜ幸隆は、信玄の招きを受け入れたのか。 信州(現・長野県)への経略に本腰
  を入れて、信玄は三百を超える信濃の国人や土豪に内心、閉口してしまった。この地方は
  山と山に囲まれた盆地が多く、各々が天険の要害を背景として、小独立国家を形成してい
  た。 信玄は武力による力攻めの愚を悟り、調略で敵陣営を味方に引き込む作戦をとった。
  幸隆はこれを受け入れ、わが子・昌幸にも同じものを伝授した。 千人以上の将兵を失った
  とも伝えられる、武田氏の戸石城攻めを、隆幸はわずか一日で占領するという、隔絶の軍
  配ぶりを発揮した。天文20年5月26日のことである。このとき、幸隆は39歳、昌幸は5歳
  だった。 幸隆は戸石城を難攻不落の堅城と判断し、義清方の有力武将を利≠ナ釣り、
  武田家への随身を奨励した。 戸石城攻略は、幸隆の武田家における地位を一躍、向上
  させた。村上義清はほどなく、越後(現・新潟県)の上杉謙信の許へ亡命する。 その後、
  幸隆は後方から謙信を牽制。川中島の合戦は、おもに上州(現・群馬県)侵攻に従事して
  いる。 幸隆の死は、信玄が病死した一年後のことであった。真田家の家督は長男の信
  綱が継ぐが、翌天正3年(1575)の長篠・設楽原の戦いで次弟・昌輝とともに戦死。跡を
  三男で29歳の昌幸が襲った。 さて、父は子へ、何を伝えたのか。天才的戦術家である
  謙信を、いかにすれば倒せるのか。 越後の押さえとして岩櫃城(現・群馬県吾妻郡東吾
  妻町)に入った幸隆は、打倒謙信の方策ばかりを考え、ついに閃くものを得た。     
   幸隆は徹頭徹尾、謙信を愚弄し、激怒させようと考えた。謙信は生まれながらにして、
  天賦の武才に恵まれた男である。反面、プライドが高く、単純な中傷や罵詈雑言に弱い。
   幸隆は謙信を挑発しつづけ、戦局判断を鈍らせて、越後兵に苦杯を嘗めさせることに
  再三、成功した。 要は相手の喜怒哀楽につけ入るというのが、幸隆の会得した生き残り
  の才覚・技術であった、といえそうだ。 昌幸は落日の武田家の中で、父の智謀を改めて
  反芻したことであろう。                                (後編に続く)   
文=作家 加来耕三(かく こうぞう)