The Strategic Manager 2014,12    名経営者が残したあの言葉
株式会社TKC発行「戦略経営者」より
やり損じても、儲けなくても、国家のために
やることならばドシドシやってみるのがよかろう
森村市左衛門・森村グループ創始者
 ノリタケや日本ガイシ、TOTO、INAXといった陶業メーカーの基礎を築いた森村市左衛門
(1839年生まれ)は13歳で見習奉公に出ているが、生来虚弱体質であり、わずか3年で実家
に帰っている。 しかし、精神は強靭で「われも貧乏の子だが、六根を清浄にし、正しき道を踏
み行なわば思うこと成就せずという事なし」 と心に誓っている。やがて商人となった森村は熱
心と正直を頼りに中津藩の御用商人となるが、そこで出会ったのが福沢諭吉である。
 福沢との交流を通して森村は「国家のために外国貿易を行い外国の金を取って日本の金
を殖やす」ことの大切さを知り、弟・森村豊をニューヨークに派遣、森村組ニューヨーク支店を
設立してアメリカ向けの輸出貿易を開始している。1878年のことである。
 森村は明治の実業家の中では珍しいタイプだった。多くの実業家が政府と組んで資金をも
らって商売をしたのに対し、森村は一時期はかつて家業だった洋式馬具を製造したが、賄賂
の要求を嫌って廃業、商売を行ってコツコツ貯めたお金で外国貿易、そして輸出用陶磁器の
製造に成功している。
 当初、輸出品の多くは観光みやげ的なものだったが、やがて洋食器の製造に着手、コーヒ
ー茶わんなどで成功を収めるが、食卓用食器では大変な苦労を強いられている。求められた
のは純白の生地だか、当時の日本の陶磁器は生地の色が灰色で光沢が少なく熱湯に弱い
という欠点があった。 1904年、森村は今の名古屋市西区則武新町に日本陶器を創立、欧
米人が使う食器を日本の手でつくり輸出することを目指したが、長く失敗が続き、世間から「
森村の工場で煙突からのぼる煙はお札の煙に違いない」 と言われるほど赤字を出し続けて
いる。 最も難しいとされた八寸皿がようやく完成したのは1914年、挑戦から20年、会社創
立から10年が経過していた。なぜこれほどの難事業に取り組んだのか。すべては国家のた
めに外国貿易を盛んにするためだった。 森村はこんな言葉を残している。
「よしややり損じても、また儲けなくても、国家のためになることならば、ドシドシやってみるの
がよかろう」 日本の発展はモノづくりと貿易によって可能になったが、そこには森村のような
犠牲を厭わない挑戦があった。
文=桑原晃弥(くわばら・てるや)経済・経営ジャーナリスト