The Strategic Manager 2014,7    名経営者が残したあの言葉
株式会社TKC発行「戦略経営者」より
絶えず人より一歩だけ先を歩け
服部金太郎・セイコー創業者
 1964年の東京オリンピックを皮切りに、国際的なスポーツイベントの公式時計を担当、世
界的なブランドとしての地位を確立したセイコーの創業者・服部金太郎(1860年生まれ)は
古物店「尾張屋」を営む父親から学問の道で家名をあげることを望まれるほど利発な少年だ
ったが、「商人になりたい」として13歳で丁稚奉公に出ている。
 しかし、ほどなくして時計屋に将来を見いだし、いくつかの時計店で時計修理の技術を磨
いた後、通い職人を続けるかたわら、自宅に服部時計修繕所という看板を掲げ、時計の修
理や古時計を修理して販売する小さな商いをスタートしている。18歳の時である。
 当時、掛け時計をはじめ、すべての時計は輸入に頼っており、時計店にできるのは輸入時
計の修理と販売だけだったが、服部は薄利多売と、お客からの苦情にはどんなことにも誠実
に応じることで信用を得て、着実に店を成長させていった。
 服部のモットーは「休むな、急ぐな」であり、誠実さを何よりも大事にしたが、一方で他の時
計店に先駆けて外国商館から仕入れ、さらには外国からの直接輸入と常に一歩先を心がけ
ていた。次に打ったのが国産時計の製造だった。
 1892年、吉川鶴彦を技師長に精工舎を設立した服部は2カ月後、木製枠のボンボン時計
の製造に成功、勢いを駆って懐中時計ケースの製造に着手、95年には懐中時計「タイムキ
ーパー」の生産にも成功している。
 しかし、価格の点では輸入時計に対抗できなかった。そのため服部は品質・値段の両面で
舶来品を凌駕することを目指して掛け時計の利益を注ぎ込みながら、実に15年もの歳月を
かけて念願の利益を生む懐中時計をつくり上げることになった。
 まさに執念のたまものだった。やがて服部は国産初の腕時計「ローレル」の製造など着手
するなど、「絶えず人より一歩だけ先を歩く」ことを生涯心がけていた。こう話している。
「私は常に、世間より一歩先を歩いてきました。商人には、これが必要だと思います。大切な
のは一歩先であって、何歩も先に進むと世間とかけ離れすぎて、うまくいかない。商人が予
言者になっては駄目です」  服部は先見の明と堅実さを合わせ持つ商人だった。
文=桑原晃弥(くわばら・てるや)経済・経営ジャーナリスト