The Strategic Manager 2014,6    名経営者が残したあの言葉
株式会社TKC発行「戦略経営者」より
あれくらいのオルガンなら
自分では3円くらいでできる自信がある
山葉寅楠・ヤマハ創業者
 今や世界最高のピアノメーカーの一つとして知られるヤマハの物語は、紀州藩生まれの
流れ職人・山葉寅楠が浜松の小学校から鳴らなくなったオルガンの修理を頼まれたことか
ら始まった。 当時、浜松にはアメリカ製の高価なオルガンを修理できる者はおらず、病院
で西洋の医療機器の修理を行っていた山葉に白羽の矢が立った。山葉は初めて見るオル
ガンの故障の原因をすぐに探り当てたばかりか、こう考えた。
「あのくらいのオルガンなら、自分では3円くらいでできる自信がある」
  舶来物が45円なら、同じものを安くつくれば商売になり、国益にもかなうと直感した山葉
は、学校から部品の写し取りの許可を得るや、飾り職人の河合喜三郎とともに見よう見まね
で1台のオルガンをつくることに成功した。
 しかし、苦心の第一号は「体は成せども、調律不備にして使用に耐えず」と酷評されるほど
外見はともかく、楽器として肝心の音程がでたらめだった。困った山葉は30代の身で音楽
学校に通って調律法を学び、何とか合格品をつくり上げ、その勢いで1889年に山葉風琴制
作所を設立、洋楽器の国産化に乗り出すことになった。山葉37歳の時である。
 山葉のオルガンは内国勧業博覧会で出品中最高の賞を受賞、わが国初の楽器の輸出を
行うなど高い評価を得たものの、オルガンよりはるかに製造が難しいピアノの国産化は簡単
にはいかなかった。1987年、社名から氏姓をとり「日本楽器製造」に改めた山葉は、ピアノ
製造のために渡米、107日間をかけてピアノ会社と機械メーカーなど100社を訪問、大量の
部品や工作機械を買い込んだ。
 1900年、こうした取り組みが実を結び、国産ピアノ第一号が完成。1904年、セントルイス
で開かれた万博博覧会にピアノを出品して受賞、1911年にはピアノ年間500台、オルガン
1万台を生産するなど日本楽器は日本一の楽器メーカーへと成長することとなった。
 一方で山葉は「ピアノをつくるには人間をつくってから」と見習生制度もスタート、若く優秀な
技術者の育成にも努めている。モノづくりと人づくりの両方を大切にした結果、ヤマハはやが
て長い歴史を持つ西欧メーカーに負けないピアノをつくることができた。
文=桑原晃弥(くわばら・てるや)経済・経営ジャーナリスト