The Strategic Manager 2014,4 名経営者が残したあの言葉
株式会社TKC発行「戦略経営者」より
やせても枯れても一国一城の主、
城を売り渡すことはできない
御手洗 毅・キヤノン創業者
 企業にとってブランドとは何か。それは命懸けで守り育てるものである。
1901年、大分県に生まれた御手洗毅は蒲江町(現・佐伯氏)の初代町長だった父を早く亡く
しているが、兄・信夫の助力もあり、北海道大学医学部に進み医師となっている。
 病院勤務を経て、1940年に御手洗産婦人科病院を開業と、医師として順調にキャリアを
積んでいった御手洗だが、思わぬ転機が訪れた。創設時(33年)から共同経営者として関わ
ってきた精機工学工業株式会社(現・キャノン)の最高責任者・内田三郎が42年、シンガポー
ルに司政官として赴任、会社関係者から「このままでは社員が路頭に迷います」と懇願された
御手洗が社長に就任することになったのである。
 戦争は御手洗から病院など多くのものを奪ったが、それが御手洗の覚悟につながった。
戦後間もなく、御手洗は「カメラで必ずや世界を制覇する日が参ります」と社員の前で宣言、
社名を「キャノンカメラ」に変更した47年には「私どもは、あのライカを念頭に置き、『打倒ライ
カ』を標榜しながらやっております」とぶち上げている。
 あまりにも遠大な目標だったが、御手洗はキャノンの技術力に自信を持っていた。事実、
50年に渡米した御手洗が持参した試作機についてアメリカの名門カメラメーカー、ベル・ア
ンド・ハウエル社は「技術はライカより数等上である」と高く評価している。
 一方でこれは「メード・イン・オキュパイド・ジャパン」であり、ブランドをベル・アンド・ハウエ
ルに変えるなら売ってやるとも言われている。御手洗は即座にこう言って断った。
 「やせても枯れても一国一城の主、城を売り渡すことはできぬ」
 目先の利益よりも「自負」を選んだ。やがてライカ越えは現実のものとなった。52年の販売
の「Wsb」や社会現象まで巻き起こした「キヤノネット」など立て続けにヒットさせた御手洗の
元にベル・アンド・ハウエルから「キヤノン製品をわが社に売らせていただきたい」という申し
出があった。 あの時の屈辱から10年後のことであり、日本はドイツや、アメリカと並ぶ三大
カメラ生産国となっていた。敗戦の日、「戦争で負けたけれども頭で負けたのではありません」
として「頭でつくった製品」の輸出を誓った御手洗の願いが成就することになった。
文=桑原晃弥(くわばら・てるや)経済・経営ジャーナリスト