The Strategic Manager 2014,2    名経営者が残したあの言葉
株式会社TKC発行「戦略経営者」より
おれは絶対に金持ちになるまい
ただ大きな仕事はしてやろう
鮎川義介・日産コンツェルン創始者
人の一生の「長さ」は何歳まで生きたかという時間で測るだけでは十分ではなく、人として
いかに起伏や変化に富んだ「ハイキング・コース」を歩み、その間にいかに社会公益の役に
立つ仕事を行ったかによって決まる、というのが日産コンツェルンを形成、86歳で亡くなった
鮎川義介の人生観だ。 鮎川の人生はまさにこの言葉通りのものだった。1880年、山口県に
生まれた鮎川の実家は貧しかった。しかし、大叔父に明治の元勲・井上馨がいたこともあり、
東京帝国大学工科大学機械工学科に進んでいる。当時としては最高のエリートコースである
ところが、鮎川は寄宿先の井上家を訪れる天下の名士や金持ちを見て「おれは絶対に金持ち
になるまい、ただ大きな仕事をしてやろう。願わくは人のよく行ない得ないで、しかも社会公益
に役立つ方面を切り開いて行こう」と決意、自らの意思でエリートコースの道を捨てている。
 選んだのは芝浦製作所での職工生活と、それに続くアメリカでの見習工生活だった。そこで
の経験を通して鮎川は製鉄技術を身につけるとともに、日本人が持つ「手先の器用さと、動作
の機敏と、コツの活用という特有性」を発揮すれば、体格や腕力に優れたアメリカ人に負けな
い成果を上げることができるし、輸入品を駆逐し輸出できる製品さえつくることができるという
「意義のあるまた得がたい体験」をすることとなった。
 この経験がやがて数々の起業につながることになった。1907年、帰国した鮎川は井上馨
の協力を得て、戸畑鋳物株式会社を設立、起業家としてのスタートを切っている。
 その後、鮎川は救済した久原鉱業を持ち株会社として、社名を日本産業株式会社(略称日
産)に改め、日立製作所、日立造船、日本鉱業、日産化学、日本水産など100社を超える企
業を擁する一大コンツェルンを築き上げるとともに、1933年には大財閥が躊躇する自動車
産業に進出、わが国最初のベルトコンベヤー式による大量生産体制を確立した。
 そして戦後は中小企業の育成に励んでいる。エリートとして生きるのではなく、開拓者として
生きた鮎川の一生は若き日に誓った「人のよく行ない得ない、しかし社会公益に役立つ大き
な仕事」 を見事に成し遂げた生涯だった。
文=桑原晃弥(くわばら・てるや)経済・経営ジャーナリスト