The Strategic Manager 2014,1 名経営者が残したあの言葉 |
株式会社TKC発行「戦略経営者」より |
|
電気器具を 輸入するようでは 国は滅びる |
|
|
藤岡市助・東芝創業者の一人 |
|
|
若い頃、どんな人と出会い、どんな言葉をかけられるかでその後の生き方が大きく変わる |
|
|
ことがある。田中久重と並ぶ東芝のもう一人の創業者・藤岡市助にとっては発明王エジソン |
|
|
との出会いがそうだった。 |
|
|
1857年、現在の山口県岩国市で生まれた藤岡は旧藩主の奨学金を得て、東京帝国大 |
|
|
学の前身である工部寮電信科に入学、エアトン教授に学んでいる。 |
|
|
成績は極めて優秀だった。在学中に電信技術の教科書『電信初歩』を書き上げ、学校を |
|
|
首席で卒業後、工部大学校に残り、アーク灯用の発電機の設計製作なども行っている。 |
|
|
この時期、東芝の創業者・田中久重にも出会う。 |
|
|
藤岡にはこのまま学者として進む生き方もあったが、運命を大きく変えたのは1884年、 |
|
|
万国電気博覧会のために渡米した際のエジソンとの出会いだった。このとき藤岡はエジソン |
|
|
に「日本に帰ったら電気事業の創設にわが身を捧げます」と決意のほどを語っているが、エ |
|
|
ジソンはこう返している。 |
|
|
「日本を電気国にするのは大変良いことだ。だがどんなに電力が豊富でも、電気器具を輸入 |
|
|
するようでは国は滅びる。日本を自給自足の国にしなさい」 |
|
|
帰国から2年後の1886年、藤岡は東京帝国大学工科助教授の職を辞して東京電燈(東 |
|
|
京電力の前身)の設立に尽力、「電力が豊富」な国を目指す一方で、1890年に白熱舎(の |
|
|
ち東京電気から東芝へ発展)を創業、本格的な電球製造に着手することになった。 |
|
|
当初、日に数個つくるのが精一杯だったが、試行錯誤の末に6年後には日産300個近くつ |
|
|
くることが可能になり、1905年にはタングステン電球「マツダランプ」を発売、エジソンに言わ |
|
|
れた「自給自足の国」に大きく近づいている。 |
|
|
この時期、藤岡は「電気の力」を活用した開発をいくつも行っている。1890年、第3回内国 |
|
|
勧業博覧会で日本初のエレベーターを設置するなど電気の時代の先駆け的事業を手掛け |
|
|
ている。早さや効率だけを追求するなら輸入に頼り、他力に依存するのもいいだろう。しかし |
|
|
自前の技術を持たない国や企業ほど危ういものはない。「自給自足の国」を目指した藤岡の |
|
|
ような人物がいたからこそ日本は工業国へと成長することができた。 |
|
|
文=桑原晃弥(くわばら・てるや)経済・経営ジャーナリスト |