稲盛和夫氏の著書 『人生と経営』 には、人間として生きていく上の迷いについて
   「むずかしいことを やさしく」 説かれています。
心のあり方を問う -旅人と虎-
 規範を見失い、不祥事などで没落していく人々を見ていると、 栄枯盛衰は世の
常ながら、改めて人生のあり方について考えざるをえない。 一流大学を出て、大
企業に就職し、トップにまで上り詰めた優秀な方々が、 栄光の座から一転、奈落
の底に沈んでいく。 このような無常きわまりない人間の姿と人生の様相を、お釈
迦様は、次のような説話で的確に表現しておられる。
 木枯らしの訪れも間近い、晩秋の夕暮れ、旅人が家路を急いでいる。辺りがだ
んだん薄暗くなる中、道に何か白いものが点々と落ちている。 「なんだろう」とは
思うものの、寒さは増してくるし、家路を急がなければならないので、旅人はなお
も早足に歩いていく。すると、ますます白いものが増えてくる。立ち止まってよくよ
く見ると、それは真っ白い骨だ。それも人間の骨なのだ。
「どうして、こういうところに人骨がいっぱい落ちているか」 と訝りながら歩いてい
くと、向こうから、飢えて荒れ狂ったトラが、唸り声をあげて襲いかかってきた。
「さては、先ほどの人骨は、このトラに食われた旅人たちのものだったのか!」
 旅人は振り向きざま逃げ出す。逃げていくうちに、断崖絶壁に出てしまう。恐る
恐る下を見ると海が広がり、怒濤逆巻いている。しかし、後ろからは獰猛なトラが
迫ってきて、逃げ場がない。
 ふと見ると、断崖の端に松の木が立っている。 旅人はその木によじ登るが、ト
ラは木に登ることを苦にしない。松の木に爪をかけて、今にも上がってきそうだ。
「もうダメだ」
 旅人がそう思ったとき、松の枝から一本の藤蔓が下がっていることに気がつい
た。 旅人は、すぐにその藤蔓につかまった。トラは松の木の半ばまで上ってきた
が、旅人を襲うことはできない。しかし、空腹なものだから、立ち去ることがことが
できず、旅人を睨んでいる。
「とりあえずは命拾いをした。 やれやれ」
と旅人が思うまもなく、上のほうでカリカリ、カリカリと音がする。見ると、白いネズ
ミと黒いネズミが交互に、藤蔓の根っこをかじっているではないか。
「たいへんだ。藤蔓がネズミにかみ切られてしまう」
  今までトラに襲われる心配ばかりしていたけれども、今度はネズミに 「頼みの
綱」 をかみちぎられてしまいそうだ。 下を見ると、 海は波頭砕け散り、 さらには
荒れ狂った赤、青、黒と三匹の龍が、旅人の落ちてくるのを、今か今かと口を開
いて待ちかまえている。
  旅人は藤蔓を揺すり、 ネズミを追い払おうとする。 すると何かが落ちてきて、
旅人の口に入った。
「甘い」
  これは、蜂蜜ではないか。よくよく上を見ると、大きな蜂の巣が藤蔓の上にか
かっていた。藤蔓を揺らすと蜂の巣が揺すられて、蜂蜜が落ちてくるのだ。この
ことに気がついた旅人は、「これはシメシメ」とばかり、藤蔓を揺すれば切れてし
まうにもかかわらず、甘い蜂蜜ほしさに、藤蔓を大きく揺らす。そうして旅人は、
蔓を揺すっては落ちてくる蜂蜜をいつまでもなめつづけている。
この説話は、『仏説比喩経』というお経が出典ということだが、ここでお釈迦様
は、比喩をもって、この「旅人」こそが、我々人間なのだと説いておられる。
「晩秋の夕暮れ」 とは、 一人で生まれ、 一人で死んでいくしかない。厳しく寂し
い我々の人生を表している。 人生には病や死がつきまとう。 その人間に襲いく
る病魔や死が「トラ」であり、断崖絶壁に生える「松の木」が、財産、地位、名誉
を意味している。
 財産、地位、名誉にすがったら救われるものと考えて、一生懸命に生きてきて
も、必ず「トラ」、つまり病や死は迫ってくる。だから、財産、地位、名誉も、なんの
足しにもならない。結局、人間は、頼りなさそうな藤蔓に、自分の身を託さなけれ
ばならないのである。
 一縷の望みである藤蔓を交互にかじる 「白と黒のネズミ」 とは、 昼と夜のこと
を意味している。昼と夜が交互にきて、容赦なく時間が過ぎていく。つまり、一日
一日死に近づいていくのが人生である。 死ぬのが怖くて病から逃げ、 どんなに
生き延びようとしても、人間は必ず歳をとり、やがて死を迎える。
 ところが、 愚かなことに、それがわかっていても、人間は甘く美味しい 「蜂蜜」
をむさぼり、 目前に死が迫っていることさえ忘れてしまう。 無常きわまりない生
に直面しても、刹那的な快楽におぼれてしまう、それが我々人間なのだ。
 さて、説話の中にある、荒海にのたうっている、赤青黒の三匹の龍とは、人間
の心がつくり出した現象である。赤い龍は怒りを表し、青い龍は欲望を表し、黒
い龍は愚痴を表す。 つまり、仏教で言うところの三毒である。 このような心が、
恐ろしい現象世界をもたらし、 現世でも、さらに来世までも苦難に満ちた人生を
歩ませ、はかない人生をさらに台無しにしてしまうのだ。
  人は、この世に一人で生まれて、一人で死んでいく。 もともと人生とは、無常
なものでしかないのである。 しかし、そのはかない人生を、自分の心の反映で、
さらにおとしめることはない。 みずからつくり出した怒りや欲望、 妬み、 恨み、
愚痴などに脅かされることなく、 自分の心を高めることができれば、恐ろしい三
匹の龍などは消えてしまう。眼下にあるのは、本当は穏やかで、たおやかな海
だということがわかってくるはずなのである。そうすれば、何をも恐れることなく、
自分の人生を全うすることができる。 そうお釈迦様は、教えてくださっているの
である。